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龍泉会は京都臨済宗妙心寺を大本山とする禅寺の親睦会です 

大悲山 慈眼寺じげんじ

沿革

活動報告写真

開基は胡宗正越和尚(~1649)で、京都大徳寺塔中金龍院末であった。しかるに二見慈恩庵睗山(~1707)は、元禄二年(1689)八月、かつて金龍院主と同参し懇意だったことから、慈眼寺を妙心寺直末とし、その上、礫浦龍泉院を慈眼寺末とするように了解を得た。そこで睗山は伝法開祖とされている。
 「寺籍調査」(1909)によれば、開祖睗山はその願いを全うできず、嗣法の泰量座元に遺言し、その後、法孫龍泉五世随応の嗣亘天智照(~1776)をもって当寺の伝法中興とし、それ以後、龍泉・慈眼両寺は一法連綿し、一世替わりで相続したが、天桂智眼(龍泉八世)に至って両寺は分法したという。

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「田曽浦文書」からは、享保八年(1723)十月には租芳が住持だったことが知られ、また、同年のものに「田曽浦慈眼寺住持玲巌願之通聞済ニ付」というのもある。この玲含巌は礫浦龍泉院の六地蔵の銘に見える。
「宿田曽村誌」では、享保十年(1725)寂の仙山林公が再建に当たったとしている。
 「田曽浦文書」には、享保十三年(1728)正月に、住持が肝煎頭等と争論し、海禅寺住持の仲介で落着するという事件を記した文書があるが、そこに隠居恵仁」の名が見える。更に同月、租仁が慈眼寺を退院したという文書があるが、これらは恐らく、この事件が原因しているのであろう。また、戌六月とする慈眼寺住持喚道の死亡届もあり、これは文久二年(1862)寂の十世喚道祖応のものである。
 再中興は、先述のように、安永五年(1776)六月寂の亘天とする。寛政八年(1796)に殿鐘が鋳造され(同鐘銘)、明治十五年(1882)に現本堂・子安地蔵堂が新築されている。



慈眼寺のある田曽浦は

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日本一かつお村!
慈眼寺のある南伊勢町田曽浦は、日本一かつお村と言われるほど遠洋漁業が盛んでした。かつお船の数、かつおを撮る量は日本一。
 他にもいがみ、つえ、ひし、がしら、たい、くろめ、よんぼなどいっぱい釣れます。



大悲山 慈眼寺

〒516-0222
三重県南伊勢町田曽浦4041

TEL 0599-66-2226
FAX 0599-66-2226