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龍泉会は京都臨済宗妙心寺を大本山とする禅寺の親睦会です 

神護山 仙遊寺せんゆうじ

沿革

活動報告写真

本寺は元清竜山泉住庵と号し、当地の城主九鬼三郎左衛門尉隆良三世、大輔隆次追善のため天文年間に創立される。
 後世正保年間に一度、また明治22年、当寺十四代密應和尚の代に再建され今日に至る。
 その昔紀州九鬼より九鬼三郎左衛門尉隆良が、志摩波切の川面源左衛門をたよって来り、川面と縁組して波切城山の地に城を構えた。三代の大和守隆次が菩提寺として天文11年(1542年)1月5日仙遊寺創立、隣仲集徳首座禅師を招聘して開山となった。
 創設当時は清竜山泉住庵といわれていたが、七世代住職福州亀齢和尚のとき、元禄2年(1689年)に、今の神護山仙遊寺と改称された。その理由はこの寺の開基、当時の波切城主であった九鬼家の三代に当たる九鬼大和守隆次の法名が、仙遊寺殿星隠大居士であるところから、この仙遊寺をとって今の名称になったという。仙遊寺西側の奥庭には、初代より五代定隆にいたる五基の五輪石塔があり、また本堂には、三代隆次の位牌が現存している。仙遊寺所蔵の古文書の中に、九鬼五代の法名覚えがあり、初代隆良、仙溪。二代隆基、椿山。三代隆次、法名仙遊寺殿星隠大居士、天文11年正月5日とある。四代泰隆法名、泰雲、天文20年7月21日「田城築城」とあり。五代定隆大隅守父とある。この五輪塔の中二基には文字があり、法名星隠没年天文11年5月5日。泰雲没年天文20年7月21日と刻まれている。


波切九鬼

活動報告写真

 波切は海路の要衝に位置しているところから鎌倉初期から沿岸の拠点として重視されていた。南北朝後期には中央政権の乱れは地方にも大きく影響して乱世の様想を見せはじめた。とりわけ志摩は伊勢国司北畠氏の領有化にあったが、南朝方の将北畠は吉野朝廷の護持の専念し
僻邑地志摩国には手が回らなかった。この隙をねらって熊野衆が東上して志摩で海賊行為や荘園の掠奪がはじまった。
 波切九鬼の出自については諸説まちまちであるが、その姓氏から南牟婁郡九木(元尾鷲市九木)より波切に進出したことは諸説とも一致する。
 遠祖は天津児屋根命〜藤原鎌足から引く藤原姓を名乗り、のち熊野別当湛増が熊野に来て源氏の力を得て熊野水軍の基となり、それが熊野三山を守る八庄司に発展し、その流れをくむ一派が九鬼に入り地名を号して九鬼家の祖となったという。しかし熊野八庄司説は江戸幕府の作成になる『寛永諸家系図』の引用であるとして異論も多い。また『寛政重修諸家譜』は「出自は詳にせず」としている。
 仙遊寺の文書に
九鬼元祖、三郎左衛門尉隆良(法名仙渓)――二代 椿山殿隆基 幼名珍児(法名椿山)――三代 大和守隆次(法名星隠)――四代 山城守泰隆(法名泰雲)――五代 宮内大輔定隆(法名明甫)
以上五代御遺骸の御墓所石塔御座候、今ニ至迄九鬼一統の墓と唱申候、当寺の住持代々御引導仕候、九鬼御系図御先祖代々の儀共書写候もの当寺什物ニ而所持仕候、御先祖御家臣ハ山本・川面・羽山・池村・和田・林・椿・岡本・小川・中井・松井・田中・寺田氏等大半当寺の檀家ニ而罷有候。(以下略)
 と、見え五代までを波切の九鬼氏としている。



神護山 仙遊寺

〒517-0603
三重県志摩市大王町波切6

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FAX0599-72-5625