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龍泉会は京都臨済宗妙心寺を大本山とする禅寺の親睦会です 

虎渓山 寶光寺ほうこうじ

寶光寺について

活動報告写真

山号寺号:虎渓山寶光寺
御本尊:地蔵菩薩
 1680年ころより列宗禅師の弟子である暘山の弟子が住職をしていたようである。
 一時この流れは途絶えたが龍泉院などにも住する松陰の一族の一人であろう石陵玄松が寶光寺に隠居してきてからは伝法がある意味引き戻された。
 妙心寺の末寺となるのは比較的新しく明治15年のことである。

1627年:秀山祖学首座が中興開山し1681年寂。それ以前にも庵を結んでいたが法高庵などの名称は過去の記録にあるが詳細は失われている。
1680年:寶光庵を新築した。
1681年:二見町慈恩庵徒弟であり暘山の弟子である波切生まれの「玄」が寶光庵住職となる。
1694年:暘山の弟子である立神生まれの「実」が住職となる。医王山薬師堂が寶光庵の寺付となる。
1699年:瑠璃光寺徒弟の英首座が住職となる。
1724年:聖徳儀鳳により寶光庵から寶光寺へと寺号を申請。これを以って再中興とする。1770年寂。
1870年頃:時に下津浦長光寺に住していた石陵玄松(松陰氏)和尚が寶光寺へ隠居。寺格向上の申請を度々繰り返し寺格を上げる手続きを行う。
1878年:石陵玄松の弟子である潭月宗達に文法した。石陵玄松が伝法開山であり潭月宗達を二代目、またこれを一世とした。
1883年:妙心寺の直末寺となる。
1912年:寶光寺を新築した。
1930年:潭月宗達寂。歴代住職は臨済宗徒であるから、推測の域ではあるが恐らく当寺近隣である龍泉寺の末寺扱いであったものと考えられる。
 


医王殿薬師堂

活動報告写真

 草創不明。境内にて寛文三年(1663年)の石碑があり梵事がある。恐らく『寶光寺過去帳』に「権大僧都法印宝寿院 寛文三、四、廿三、越ヶ谷田寄進」とあるものに当たるのであろう。同過去帳には更に「妙参大姉 寛文七、十二、十三、宝寿院妻、御堂比丘尼」とあり、真言宗系統のものであったと思われる。
 延宝八年(1680年)の泉村指上に「寺堂ニ」とある堂はこれであろう。また、元禄三年(1690年)のものに、「拾年以前酉年(天和元年=1681年か)破損して立直し」とあり、八年のものには、寶光庵支配とある。
 『寶光寺過去帳』には、元禄十三年(1700年)堂守覚峰一円禅人、宝永四年(1707年)御堂坊禅景一華禅人、享保八年(1723年)祝外演堂主、文政七年(1824年)了山宗悟堂主の没が見え、境内に、享保八年(1723年)、宝暦二年(1752年)没の堂主の墓石が現存する。堂前にある「三界萬霊」の碑は、延享二年(1745年)日本廻国江戸の人某の建立である。
 明治に入っては、十九年十月五日没の田中安兵衛のところに「御堂主」と記してある。
 『切原郷土史』によると、この薬師堂は、元来、切原堂広にあった薬師堂で、切原が虫送りの行事をした際、飛火して泉の薬師堂を焼失したので、その代償として移築したものだという。これは、この堂を修理した際に、切原在住の塗師奥辰蔵がその記録を発見したという。しかし、その年代も記録も確かめられない。
 現在の薬師堂は2010年に新築され、翌年1月16日に落慶法要が行われました。

年中行事

1月大般若会・合同年忌

新年最初の行事として大般若会が行われます。
      
 

1月24日 初地蔵

医王殿薬師堂で地蔵講の皆さんと法要を行います。
 

2月観音懺法・戦没者慰霊祭

観音懺法
観音様へ日頃の過ちを懺悔し、心新たにする法会です。
戦没者慰霊祭   
 

2月15日 涅槃会

お釈迦様の入滅の日で遺徳追慕と報恩のための法要を涅槃図を掛け地蔵講の皆さんと行います。
 

4月8日 釈尊降誕会

お釈迦様の誕生を祝う花まつり。檀家の皆さんが甘茶を貰いに来ます。
 

4月21日 弘法大師

医王殿薬師堂で地蔵講の皆さんと法要を行います。
 

8月7日 七日盆

盆はじめのこの日の夜、初盆を迎える精霊の供養の法要を行います。
 

8月11日 施餓鬼会

本堂正面の入口に大きな施餓鬼棚が組立てられ、檀家の皆さんが野菜やホウヅキなど沢山のお供えをして法要を行います。
 

8月14日 迎え念仏

農業研修施設で夜、檀信徒の皆さんと精霊に念仏をお唱えします。その後、火振り、盆踊りなど行事が盛大に行われます。
 
 

8月16日 送り念仏

迎え念仏をした農業研修施設で夜、区役員の皆さんと精霊に念仏をお唱えします。
 

8月24日 地蔵盆

医王殿薬師堂で地蔵講の皆さんと法要を行います。
 





虎渓山 寶光寺

〒516-0103
三重県度会郡南伊勢町泉1059

TEL 0599-66-0502
FAX 0599-66-2120